エッセイ「特別支援学校の体育祭」

我が家の三女には障害がある。「自閉症と知的な遅れ」というのが、医者から下された診断である。
三女は春から広島市立広島特別支援学校の高等部に通い始めた。入学した当初は、慣れない環境に抵抗感があったようで、「学校に行きたくない」と行き渋ることがあった。学校から帰るとグッタリして、すぐに横になって眠った。笑うことも少なくなった。娘の笑顔が減ると、私の心も家の中も暗くなった。しかし、5月連休を過ぎたあたりから学校にも慣れてきたようで、少しずつ笑顔が増えてきた。

2024年6月4日火曜日、特別支援学校に入って初めての体育祭があった。
今年の体育祭は学年別に行われ、芝生が敷かれたグランドの横に建てられたテントで出番を待つ生徒は全員1年生。ざっと見たところ、総勢100人前後といったところだろうか。そして音響係や生徒を誘導する係の先生が二十人ほど。そして観覧に来た保護者が約五十人。少人数の小ぢんまりとした体育祭だった。
グランドの向こうに建つプレハブ校舎の上を見上げると、初夏の空が、清々しく広がっていた。わずかな冷気を含んだ風は爽やかで、心地よかった。

体育祭が始まり、生徒たちがグラウンドに入場してきた。行進の列に三女を探すと、彼女は、笑顔で真っ直ぐ前を向き、意気揚々と姿を現した。

三女は小学五年生の時に不登校になった。原因は、クラス対抗の長縄大会の練習だった。彼女は運動能力も同級生に比べると劣っていて、何度も縄に引っ掛かった。「おまえのせいで他のクラスに勝てない」と、クラスメイトたちに責められ、それから学校に行けなくなった。その後、不登校は克服したが、その後の運動会では下を向いて背を丸めて、自信なさそうに参加する姿が痛々しかった。

しかし三女はそれを克服した。体育や運動に対する嫌なイメージを見事に乗り越えた。背筋を伸ばして微笑み、いかにもこれから始まる競技が待ち遠しいといった表情で、前を見据えていた。ここまで導いてくださった先生に感謝せずにはいられなかった。私は、嬉しくて目頭が熱くなり、慌ててもう一度校舎の上を見上げるふりをして、涙を堪えた。

教頭先生の開会の挨拶の後、選手宣誓が始まった。二人の男の子が朝礼台の前に立った。するとその男の子たちの、どちらかのお母さんだと思われる女性が、その背後で観覧している私たちと他の保護者の皆さんに無言で会釈して視界の邪魔になることを詫びながら、保護者席の前に進み出た。そして、スマホで選手宣誓の様子を録画し始めた。彼らの選手宣誓はとても立派で、堂々としていた。
選手宣誓が終わり、スマホを彼らに向けていたお母さんは録画を止めてこちらを振り返って、また私たちに頭を下げて、保護者席の後ろの方に移動された。その顔を見て、私は息を呑んだ。目を真っ赤にして泣いておられたのだ。きっと息子さんの大きな成長を目の当たりにして、込み上げるものがあったのだろう。その涙を見て、私もついに堪えきれなくなって、涙をこぼしてしまった。

その後、障害物競走やリレーなどの競技が行われた。特別支援学校の体育祭は、普通高校の体育祭にあるような、色別対抗やクラス対抗の、勝ち負けや競争に対する熱狂的な執着や盛り上がりはない。その代わり、勝ち負けに関係なく、競技開始から最後まで、少人数でまばらながら、先生方と保護者の皆さんの暖かい拍手と声援が、終始、グランドの生徒たちに向かって届けられる。保護者の中には、私や選手宣誓の男の子のお母さん同様、目を赤くしておられる方が何人かいた。

ここにいる生徒さんとご家族のこれまでの歩みは、決して楽なものではなかっただろう。そしてこれから先も多分、心配事や苦労が多いことが予想される。それは、私の娘と私たち家族にとっても同様である。
しかし今日、2024年6月4日火曜日の午前10時から11時半まで、初夏の柔らかい日差しと爽やかな風の中、競争も勝利も敗北も、後悔も不安も、見栄もプライドも、偏見も差別もなく、我が子の我が子なりの成長を、それぞれの保護者が喜び、惜しみない拍手を送る、優しくて暖かい空間が、特別支援学校のグランドにあった。
私は、ずっとここにいたいと思った。このまま時が止まって欲しいと思った。
しかし、グランドを後にしながら、その考えは改めた。もっと働かないといけない、と思った。今日のような幸せな瞬間を少しでも多く、できるだけ長い時間、三女とその友達に届けるために。

仕事場に向かって車を走らせながら、こう考えた。今日の体育祭は、ひょっとしたら私がこの人生で経験できる、最高の瞬間の一つだったのかもしれない。